パッチワークについて
パッチワークの歴史を簡単にご紹介します。
「パッチワーク」ってなに?
直訳すれば、つぎはぎ細工、つまり小ぎれをつないだり、アップリケしたりすることです。開拓時代のアメリカでは、布も大切にされて、使えるところはつないだり、繕ってリサイクルしました。小ぎれをつなぎ合わせて大きくし、保温と丈夫さのために裏布との間に綿を入れて刺し込み、ベッドに掛ける寝具をつくりました。この掛け物のことをパッチワークと呼びます。物が豊かになってパッチワークキルトづくりもすたれたのですが、1970年代になり、アメリカ建国200年を迎え、伝統工芸として評価され、装飾的な作品に変わって復活してきました。
「キルティング」ってなに?
キルトをつくるときの作業の一部です。小ぎれをつなぎ合わせた物やアップリケ、または一枚布を表布として、裏布との間に綿をはさみ、表側から裏まで抜けるように縫うことをキルティングと呼びます。昔、アメリカでは洗えるように5cm以上のすき間をつくらないようにしっかりと手で刺し込んだといわれますが、現代ではミシンのキルティングも一般的になってきました。日本では伝統的な刺し子の手法がキルティングと同じといえます。
アメリカン・パッチワークキルト物語
キルトの故郷ニューイングランドを訪ねて
アメリカン・キルトの歴史を語る時、しばしば英国からメイフラワー号に乗って渡ってきた人たちのことが語られます。この人たちよりも以前にたくさんの人々がこの大陸に上陸していましたが、メイフラワー号の乗船者たちがアメリカ合衆国の誇りであるご先祖として歴史に名をとどめています。
1620年11月9日、大西洋を越えてきたメイフラワー号はニューイングランド地方のケープコッドに到着し、12月25日にはプリマスを定住地としました。現在プリマスの海岸に停泊している複製のメイフラワー号を見て、この船で102名の人々が渡航できたのかと驚かされますが、狭い船内に持ち込める生活必需品などは限られたものだったことでしょう。この地方の厳しい冬を越し、春を迎えることができたのは半数の50名でした。
植民地に入植した人々の中には、英国本土での宗教をめぐっての対立とか、制約を嫌がって宗教の自由を求めて新天地を目指した人々がいました。この清教徒たちが乗った船内で、41人の男子が交わした誓約書がメイフラワー誓約として「契約によって結合して政治団体をつくること」を誓ったのが現在のアメリカ合衆国の基礎の一つとなったようです。
丸太小屋をつくり、先住民族ペマクイド族から食料を分けてもらい、魚とりを学び、そして乏しい衣類や寝具で暖をとって過ごした最初の冬に、病気や寒さで52名もの人々が亡くなったことでもいかに厳しかったかがうかがい知ることができます。
このような自給自足の生活の中で乏しい衣類や寝具を大切にして、可能な限り再利用をしました。傷んだ衣類でも小さな布地も利用できるところはつなぎ合わせてすき間風よけにしたり、保温のために鳥の羽、動物の毛皮、枯れ草などを詰め込んで布団をつくりました。これがアメリカン・キルトのルーツといわれています。
布を大切にして使えるところをつなぎ合わせ、保温のために詰め物をして、補強のためにしっかり刺し込む、この作業は開拓時代の人々にとっては大切な仕事でした。現在この地方にはプリマス・プランテーションと呼ばれる当時の生活を復元したミュージアムがつくられており、17世紀のアメリカ大陸への移住者たちの生活を垣間見ることができます。
解説/小野山タカ子
ライタープロフィール
・キルトジャパン編集部