知られざるミシンの歴史 part.2
1849年には、シャーバン・ブロジェットと協力者ジョン・レローの共同特許により、全回転式ミシンが初めて作られました。ただ、糸がねじれてしまうという欠点があり、実用化には至りませんでした。この特許を買ったオーソン・フエルプスが、「これを改良して世に出せば、必ず大きな市場が獲得できる」とミシンの改良を依頼した相手が、シンガーの創立者である、アイザック・シンガーでした。
アイザック・シンガーは、1811年にニューヨークで、貧しいドイツ移民の8番目の子どもとして生まれました。不遇な少年期から40代までの大半を旅役者として生活していましたが、当時から機械に対する非凡さを示し、削岩機や切削機器の発明もしていたそうです。そんなある日、実用としては未完成なミシンの改良を依頼され、その将来性に着目し、全力を挙げて着手し始めるのです。
その結果、従来品を遥かにしのぐ実用機を作り出し、友人からの協力資金40ドルを元に、1851年にミシン製造・販売会杜「I・M・Singer社」を創立しました。その後、エリアス・ハウから特許権の侵害で訴えられ「ミシン戦争」と呼ばれる事態を引き起こすことになります。
この事件が後の共同経営者である、弁護士エドワード・クラークとシンガーを引き合わせるきっかけとなりました。訴訟はめでたく和解が成立し、エドワード・クラークはシンガー社の副社長に就任。事業は好調に躍進し続けました。
さらに、女性たちの興味を引くような広告宣伝にも力を入れ、「割賦販売方式」という分割払いを最初に取り入れたのもシンガーでした。この販売戦略は、高額なミシンが庶民に普及する一助にもなり、世界各国へも輸出されるようになりました。
その後も、他社の有効パテント(特許)を次々と買い取り、家庭用・工業用の両方で成功を収めたシンガー社。シンガーの引退時には、カーネギーやフォードと並び、世界の富豪に名を連ねるほどだったそうです。
「シンガー No.1ミシンの誕生」と題し、1850年(嘉永3年)、シンガーが39歳のときに1号機ミシンを完成させた情景が、米国スミソニアン博物館に再現されている。
満を持して発売された1号機は、梱包箱にそのままミシンがセッティングでき、踏板とハズミ車を連動させるだけの簡単な仕組みでした。1号機型ミシンの重量は30kgもあり、四角いヘッドに垂直のアームが組み合わさった、大きなものでした。ハズミ車を1回まわすと一針縫い目ができ、ハズミ車を外して、ギアのハンドルに足踏み装置を組み合せて使うと、小歯車が3回転し、針棒と布送りも3回上下して3針縫えます。これがミシンの基本となりました。
『手づくり手帖』Vol.20より
取材・写真協力/株式会社ハッピージャパン
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ライタープロフィール
・ソーイングチーム編集スタッフ
日本ヴォーグ社ソーイング本の編集者たち(20~40代)。