デザイナー 香田あおいさん 洋服は作って楽しい、着てうれしいに限る Part1
おしゃれ感を保ちながら、簡単で合理的な作り方の洋服を紹介してくれる香田あおいさん。
幼い頃に志したデザイナーへの夢を直往邁進して叶え、現在は多くの人を魅了する“香田マジック”を取り入れた洋服を提案する日々を送っています。
母の傍でデザイナーを志す
幼い頃に着ていた洋服は、ほとんどすべてがお母さんの手づくりだった。
「母は自分の洋服を作った余り布で私のものを作ってくれていました。だからほとんどが母子おそろい」
目の前で洋服ができ上がるのを見て、ミシンに興味津々だった女の子は、4歳でファッションデザイナーになると決める。幼稚園に入った頃、とにかくミシンで何かを縫ってみたいと母に頼み、ひたすら直線縫いをし、指にミシン針を刺したこともあったそう。
小学校の低学年で夢中になったのは、メンズラインしかないブランド“VAN”。
「小学生の高学年くらいの男の子用に“VAN”の子ども用ライン“VAN MINI”というのができたんです。早くそれに合うサイズに身体が大きくならないかと願う日々でした。ようやく着られるようになって、タータンチェックのスラックスをはじめ、裏がボアになっているベージュのコートとか、兄のお下がりのVANの洋服を着倒しました」
女の子だけれど、とにかくVAN一色。そのかっこよさは強烈だったと目を輝かせる。
中学生からは、流行を追いかけた。トラッド、サーファー、デザイナーズブランド、ボディコン…。
流行りに合わせて洋服を総取っ替えする日々を過ごす。
デザイナーになりたい
洋服が大好きな、デザイナーを志す女の子は、迷うことなく短大の服飾デザインコースに入学する。
その後、もちろんアパレル会社のパタンナーになろうと就職活動を始めた。
「そこで初めて、服飾専門学校卒でないと受験資格自体がないと知ったんです。アパレル会社の募集があっても販売員だけ。これでは望む職に就けないと、服飾専門学校のパタンナーコースに通うことにしました」
パタンナーというのはデザイナーが描いたデザイン画を型紙に起こす専門職。紙に描かれた平面のデザイン画をイメージ通りの立体的な洋服にするために、デザインを正しく理解し、裁ち方や縫製の仕方までを頭に置きながら、型紙に落とし込むのが仕事とされている。
「デザイナーになるためには、まずはパタンナーにならなくてはあかん、と思っていました。パタンナーが引いたパターンを元に組まれたトワルを、デザイナーとして見たときに直したり、きちんとした指示ができる力をつけたいと。それができない悔しさは嫌だなと思っていたので」
ちなみにここでいうトワルとは、シーチングなどの生地で仮縫いしたもののこと。トルソー(人台)に着せ、実際のデザイン画と照らし合わせる。 もちろんパターンがわからないデザイナーもたくさんいる。
世界のコレクションで作品を発表しているトップデザイナーは、デザイン画を忠実に表現し、自らの感性を存分に引き出してくれるパタンナーをいかに集めるかに力を注ぐ。
しかし、香田さんはパターンを理解できた方がデザイナーの仕事は絶対に楽しくなると信じて、デザイナーになることを見据えながら、パタンナーへの道をひたすら進んでいく。
「短大卒の経歴があったので、専門学校には2年生として入学しました。でも最初の4、5カ月は1年生で必要な授業を夜間コースで受けなければならず、昼は2年生の、夜は1年生の課題をやることに。朝から晩まで課題漬け。ハード過ぎて鼻血が出たこともありました」
苦労が報われ、パタンナーとしてアパレル会社への入社が決まる。入社後は婦人服のパタンナーとして約4年仕事をしたところでデザイナーになりたいと手を挙げた。パタンナー、デザイナーともに専門職として働くのが一般的で、パタンナーからデザイナーへの転身というのはイレギュラーだったが、すんなりと異動が決まった。
昨年、十数年ぶりに元の上司に会った際、香田さんが手を挙げた時期にたまたまデザイナーの欠員が出て異動させてもらえたという話を聞いたそう。そしてそれが滅多にないことだったことも。きっと洋服の神様が4歳からの夢を叶えてくれたのだろう。
デザイナーとして5年働いた後、家庭の事情で退社をし、フリーランスで仕事をするようになる。
『手づくり手帖』Vol.17より
撮影/大西二士男
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ライタープロフィール
・ソーイングチーム編集スタッフ
日本ヴォーグ社ソーイング本の編集者たち(20~40代)。